キックの夜明けと
極真会館、日本拳法空手道
日本大学キックボクシング部

(文中敬称略)

キックボクシング創始者の野口修が初めてキックボクシングの興行を打ったのが、1966(昭和41)年4月11日。その2年前の『週刊現代』1964(昭和39)年4月23日号に以下の記事が載った。

現在、このキック・ボクシングの計画に参加している空手道場は二つ。 大山倍達師範の日本空手道極真会館と山田辰雄師範の日本拳法空手道だ。 山田氏はこう語っている。
「現在の空手は、型の提示や徒手体操の変形にすぎません。それはそれで、保健運動として広く青少年に普及されて行くことはよいのですが、それは武道というものとは自ら別の世界でなければなりません。しかし、私は、真の空手とはそんなものではないということを大衆に理解してもらうためにこの道四十年も苦労して来たのですが、私の周りは四面楚歌。結局、プロ化して人々の支持を掴む以外方法がないということで、今度の野口氏の相談に応じたわけです」


左・大山倍達氏 右・山田辰雄氏

1905(明治38)年、兵庫県明石市に生まれた山田辰雄は、6歳から竹内佐一より起倒流柔術を修業後、何人かの先生より古流武術の指南を受け、1922(大正11)年より講道館で柔道を、船越義珍より空手の指導を受けた後、1924(大正13)年夏より、当時大阪に居住していた伝説の空手家、本部朝基の家に寄寓して稽古に励み、1926(大正15)年に助教師(師範代)となる。1941(昭和16)年暮、本部朝基を沖縄へお送りするまでの間ずっと側近として指南を受けた。

左・山田辰雄氏(21才)右・本部朝基氏(56才)『沖縄拳法唐手術』1926年


その後、日本拳法空手道を創始。1947(昭和22)年より1962(昭和37)年まで、千代田区神田駿河台の日本大学工科(現在の理工学部)で指導をしていた。ここでは日大の学生ばかりでなく、明治や法政など他大学の学生、併設校である日本大学工業高校(今の日大習志野高校)の生徒や一般社会人にも無料で指導していた。

山田は「空砲でもって射撃の競技を行い優劣を競う空手ではダメだ」と言い、寸止めより防具、防具よりグローブを着けた直接打撃制による空手の競技化を目指していた。

そして、1962(昭和37)年10月29日、山田が代表師範を務める「全日本空手競技連盟」は後楽園ジムナジアム(今の後楽園ホール)において「第一回競技大会」を開催した。グローブと肘パット着用、パンチ、キック、肘打ちでの打倒(ノックアウト制)、体重別階級、ワンマッチ制で行われ、のちに誕生するキックボクシングの先駆け的な試合であった。

サンケイ新聞 1962年10月30日


この大会には当時日本大学工業高校3年だった錦織利弘(後のNTV系キックのエース錦利弘)、日本大学工科(今の理工学部)空手部3年だった藁谷繁、神山義郎(後の群馬大学キックボクシング部監督)らが出場していた。
翌1963(昭和38)年に飯野辰三(後の日本大学経済学部キックボクシング同好会初代)は日本大学工業高校に入学し、空手部に入部。飯野が高校1年の時の日本大学工業高校空手部の主将(定時制4年)が錦織、日本大学工科(理工学部)空手部の主将(4年)が藁谷であった。
「第一回競技大会」は画期的な大会であったが、空手界からは黙殺され、山田の早すぎた試みは挫折に終わる。山田は1963(昭和38)年6月15日に静岡県清水市公会堂で「東海地区選手権大会」を開催した。

野口修は1963(昭和38)年2月、大山道場の黒崎健時・中村忠・藤平昭雄(大沢昇)をタイに同行し、空手対ムエタイの交流戦をプロモートする。結果は2勝1敗で大山道場勢が勝ち越したものの、敗れた黒崎は打倒ムエタイを誓い、1969(昭和44)年にキックボクシングの目白ジムを創設して、大沢昇・藤原敏男・島三雄・岡尾国光らを育て上げる。

タイでの成功で自信を深めた野口修が空手家やボクサーなどを集め、1966(昭和41)年4月11日に大阪府立体育会館で開催したのが初めてのキックボクシング興行である。野口は極真会館の大山倍達や、日本拳法空手道の山田辰雄に参戦要請したが、結果的に極真側からは辞退の申し入れがあり、チケットには山田辰雄の弟子の山田侃(次男)、錦織利明(利弘)の名前が刷り込まれていたが、日本拳法空手道からの出場も見送られた。この時にデビューしたのが沢村忠である。

日本大学工科(理工学部)の藁谷は4年の時に、一身上の都合から経済学部に転部し卒業。1966(昭和41)年に日本大学経済学部に入学した飯野は3年生になった1968(昭和43)年に藁谷の勧めもあり、日本大学経済学部にキックボクシング同好会を作った。顧問には藁谷が懇意にしていた経済学部厚生課課長の小松健三(日大相撲部OB)が就任した。
日本大学経済学部キックボクシング同好会は日本大学工科空手部の血脈を受け継いでいるともいえる。

 一方、山崎照朝は1968(昭和43)年4月、日本大学農獣医学部に入学するも、6月から学生運動が始まり大学は封鎖されることになり、大山倍達の勧めもあり、空手の稽古に専念する環境ができた。
そんななか、1969(昭和44)年1月、TBS、日テレに続きNET(現・テレビ朝日)が『ワールドキックボクシング』の放映を開始するとNETは極真会館へも参戦依頼をしてきた。大山倍達は当時の高弟から山崎・添野義二・及川宏の〝極真三羽烏〟を選出して極真ジム所属のキックボクサーとして参戦させた。連勝を重ねNETのキック中継でエースとなった山崎の元には、多くの学友が集まりだした。農獣医学部キックボクシング同好会が結成されたのは自然の流れであった。顧問は荒井俊貴(日大相撲部OB)。
1969(昭和44)年9月、極真会館主催の第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が開催され山崎は優勝する。


第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会で優勝の山崎氏

デイリースポーツ誌 1970年3月8日

翌1970(昭和45)年2月、NETキックは最終戦を迎えた。この時の新聞記事を紹介する。


「今度、日大内に〝キック同好会〟を結成しました。現在会員は三十人程です。キックはいいですね。キックのリズムにほれました。あのリズム感、空手が強くなるためにはぜひ取り入れなくてはなりません」


日本大学は各学部のキャンパスがバラバラに点在し、ひとつの学部がひとつの単科大学のように存在している。
いまでこそ、日本大学キックボクシング部は日本大学体育団体連合会に所属し、法学部、文理学部、経済学部、商学部、芸術学部、危機管理学部、スポーツ科学部、理工学部、生産工学部、生物資源科学部など多くの学部の学生で構成されているが、当時は農獣医学部(現・生物資源科学部)と経済学部に別々に存在していた。

1972(昭和47)年10月に全日本学生キックボクシング連盟が結成され、1973(昭和48)年6月に初の公式戦、拓殖大学対日本大学の親善試合が行われたが、この時の日大のメンバーは全員が農獣医学部の部員であった。その試合後、経済学部キックボクシング同好会が連盟に加盟し、この年の12月の旗揚げ戦から経済学部の部員も試合に出場できるようになったのだが、しばらくの間、日本大学(農)、日本大学(経)と別々に大会に出場していた。


第4回春季試合パンフレット 1978年6月18日

それが、日本大学キックボクシング部として出場できるようになったのは1978(昭和53)年11月に行われた第6回秋季試合からである。 第1回極真全日本王者の山崎照朝が創部した農獣医学部キックボクシング同好会と日本拳法空手道をルーツに持つ経済学部キックボクシング同好会がひとつになったのである。

キックボクシングは野口修が創った格闘技であるが、その誕生において、極真会館、日本拳法空手道は重要な役割を果たしていた。プロだけでなく、それは日大キック部においても。



東京中日スポーツ 2013(平成25)年4月26日

執筆者 1983年卒 第14代主将 

大森敏範

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